知性の自転力とアルゴリズムという名のファストフード
わたしは自転車を愛しています。が、
毎朝、玄関を出る瞬間に「あぁ、今日はちょっとめんどくさいな」と思わない日はありません。
風の強い日や、少し肌寒い春の朝なんかはなおさらです。
暖かい部屋でコーヒーでも飲んでから、車で動いたほうがよほど合理的だし、効率的かもしれません。
でも、重い腰をやっぱり上げてサドルに跨り、一番重いと定義される「最初の一歩」を踏み出します。チェーンがギアと噛み合い、まだ眠っているであろう筋肉に負荷がかかります。
その数分間の「儀式」を終えて、心拍が徐々に上がり始め、巡航ギアへとチェーンが収まったとき、さっきまでの億劫さは消え去り、風を切る快感へと正しく変換されていきます。
この感覚は、たぶん多くのサイクリストが知っているはずです。

この「漕ぎ出しの重さ」と、その先にある「推進力」。
いま社会が直面している知性の問題も、案外これとよく似ているのではないかと思っています。
いま、社会にはAIという名の、極めて強力な「フル電動アシスト」機能が溢れています。
自分でペダルを回さなくても、スイッチ一つで、もっともらしい答え(正解)まで運んでくれたりもします。悩む必要も、迷う必要もありません。
それは確かに快適で、効率的です。ですが、その快適さと引き換えに、わたしたちは「自分の知性を回し始める時の、あの重み」を、どこかに忘れ去ってしまってはいないでしょうか。
現代の知性は、いわば「ファストフード化された情報」に侵されています。噛まなくても飲み込める、刺激的で濃い味の情報群。
AIが数十秒で生成する「正解」を、その中身を吟味することなく、ただ空腹を満たすように飲み込んでしまいます。
しかし、そうして得られた知恵は、果たして正しく「血肉」になっていくのでしょうか。

たとえば、サークルズという場所でわたしたちがずっと大切にしているのは、「モノに触れて確かめる」という極めてアナログなプロセスです。
いまや多くの人は、モニターの中でスペックを眺め、画像を拡大し、クリックひとつで買い物を済ませます。確かにそれは便利ですし、ビジネスとしても効率的かもしれません。
でも、実際に店に足を運んで、金属フレームの冷たさに触れ、革サドルの匂いを嗅ぎ、ハブの回る音に耳を澄ませる。
そうやって自分の感覚を使って選んだモノには、画面越しでは出てこない納得が宿ります。
「触れて確かめる」という行為は、実はとても高度な知性の働きです。
それは、誰かが用意した広告コピーや、アルゴリズムが弾き出した「おすすめ」とは異なり、自分の身体感覚を信じて決断を下すということにほかなりません。この「身体的な検証」を省いて、情報のファストフードばかりを摂取し続けていると、人の知性はやはり弱っていくのではないか、そんな気がしてなりません。

そもそも自転車という乗り物自体も、かなり非効率です。
もっと速い移動手段はいくらでもありますし、
もっと楽な移動手段も、当然たくさんあります。
歴史を振り返れば、アインシュタインやヘミングウェイといった、並外れた知性を持つ人々が、なぜか自転車に魅了されてきました。
彼らほどの知識人が、なぜわざわざ息を切らして坂を登るような、非効率な移動手段を愛したのでしょうか。
それは、自転車が「自分の出した力と進む距離」という、ごまかしのきかない因果関係を教えてくれるからなのかもしれません。

AIが1秒間に何億回もの計算をこなすこの時代に、1分間にわずか90回転のペダルを必死に回すわたしたちの知性。
でも、その遅さのなかでしか見えないものがあるのだと思います。
目的地に早く着くことよりも、そこへ至るまでの「葛藤」や「経緯」にこそ、生きているという実感の源泉がある。知識人たちは、頭脳という無限の可能性と、身体という有限の限界の境目に立つことで、自らの知性を研ぎ澄ませていたのではないでしょうか。

権力者や巨大な資本にとって、「効率」を求める人間ほど扱いやすい存在はありません。
最短距離で正解へと向かい、提示されたルートを疑わずに走る人間は、予測可能で、コントロールもしやすいのでしょう。
一方で、わざわざ重いギアを選んで坂を登ったり、スペック表には載っていない「乗り味」なんてものを求めて道を迷ったりするような「非効率な人間」は、システムにとっては不気味で、管理しづらい存在なのでしょう。
「知性の自転力」を取り戻すこと。
それは、朝の漕ぎ出しのあの「めんどくささ」を、もう一度自分の中に引き受けることなのだと思います。
もっともらしい答えに飛びつく前に、一旦立ち止まって、実物に触れ、「これは本当か?」と自分の感覚に問いてみる。異なる意見に触れて、脳にちょっと負荷をかけてみたりする。
その漕ぎ出しは、確かに重くて、とても億劫です。
しかし、正しいギアを選び、自分の知性を自身で回し始めたときにだけ見える景色というものが、確実に存在するのだと思います。

サークルズという場所も、効率だけを考えれば、もっと別のやり方があったのかもしれません。
けれど、わたしたちが「人力」や「実体験」にこだわり続けるのは、ファストフード的な情報の先にある、「自分で選び、自分で漕ぎ出した者だけが味わえる本物の味」を信じているからだと思っています。
国家やテクノロジーが、わたしたちの代わりに「正解」を描こうとする2026年。今こそ、「フル電動アシスト」の電源を一度オフにして、自分の足でペダルを、自分の脳で思考を、回し始めるべき時に来ているのではないでしょうか。
たとえ最初は重くても、一度回り出した知性は、誰にも奪えないあなただけの「推進力」になるはずです。
次回は締めくくりとして、「人力の哲学」が、バラバラになりかけた世界をどう繋ぎ直していくのか。そんな具体的な希望について、お話しできたらと思っています。
それではみなさんごきげんよう、また来週お会いしましょう。