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「週刊 球体のつくり方」Vol.14 

わたしたちは、どこまで行けるのか

「区跨ぎ」とはじめての越境

子どものころ、わたしは自転車で“区を越えること”を「区跨ぎ」と呼んでいました。

自転車で区をまたぐ。ただそれだけのことが、小さな子供にとっては大冒険だったのです。いくつかの信号を渡り、町の風景が少しずつ変わっていく。知らない街にいる感覚と匂いに、不安とわくわくが混じっていたのを確かに覚えています。

自転車とは、子供たちにとっては、どこかへ行くためだけの乗り物ではなく、「どこまで自分は行けるのか」を試すためのものでもあったのかもしれません。鍵と小銭をポケットに入れて、懸命にペダルを踏む。それだけで、昨日と違う自分になれたような気がしませんでしたか。

危険な道具になった自転車

けれど今、自転車が制度(法律)という枠のなかで“危険な道具”として管理され始めようとしています。

2026年6月、自転車の違反行為に対して「青切符」が本格的に導入されようとしています。

信号無視、通行区分違反、並走、スマートフォンのながら運転……。およそ110種類の行為に反則金が科され、ルール整備は着々と進んでいます。

たしかに安全のためには、必要な変化なのかもしれません。けれど、そこにははっきりとは見えてこない重大な問いかけも、同時にあるように思えてなりません。

それは、誰の責任なのか

先日わたしは、歩道をレンタルの電動キックボードに二人乗りをして走りさっていくカップルを見ました。当然ヘルメットなんて着用していないですし、限りなくフルスロットルで、もちろん無音です。別の道では、無灯火で、右側を逆走しながら、傘を差しながら、さらにはスマホをいじる超人的な自転車乗り。そして店頭にも、かなりの数の違法電動自転車が修理に持ち込まれ、それらが違法であることと、直してあげられないことを告げると、悪態をついて帰っていく人たちもいます。それらを見て、思わず「最低だな」と思ってしまうことも紛れもない事実です。

けれど同時に、なぜそんな光景が、今これほどまでに当たり前のように現れているのか──。それを考えずにはいられませんでした。

制度の不備でしょうか?
利用者のモラルの問題でしょうか?
それとも、そのどちらもが長く置き去りにされてきた結果なのでしょうか?

“育てられない”社会

話は少しそれますが、そもそも、現代において子どもたちはどこで自転車の乗り方を覚えればいいのでしょう。

公園では「自転車乗り入れ禁止」の看板が立ち、歩道を走れば迷惑がられ(将来的には違法になりかねない)、車道は危険すぎる。かといって、交通教育の場があるわけでもなく、保護者任せになっているのが現実かと思います。

「乗れるようになってから来てください」、そんな空気感が、社会全体にうっすらと漂っているように思うのです。

そして、お年寄りにとってはどうでしょう。徒歩では遠い。バスは少ない。車はもう運転できない。そのとき、自転車は最後の「自分の足」になっている可能性もあります。でも高齢者にこそ、制度はより厳しく感じることになるでしょう。技術や判断力が落ちることを主な理由として。

それらの制度は本当に“守るため”の仕組みなのでしょうか。
それとも、見えないどこかで「排除するため」に機能しはじめているのではないでしょうか。

ルールを引くなら、見やすい線を

制度先進国であるヨーロッパの都市では、自転車と歩行者を分ける道が、物理的にもきちんと設計されています。そこには区別の段差があったり、視覚的にもわかりやすく分かれていて、間違って入ればすぐ気づくようになっています。

日本ではどうでしょう。多くの場合は白線一本。しかも、そこに誰がいてもおかしくない曖昧な空間に、いま「罰則」だけが上書きされていく流れが作られ始めています。

再び、境界線を越えるために

自転車は、都市の熟成度を映す鏡だとわたしは思っています。
持ち主の暮らし、都市の設計、社会の優先順位、それらのすべてがその扱い方に滲み出るのだと感じるからです。

罰則を強化することが、都市を熟成、良くすることなのか、それとも、他の問題を覆い隠すための“最も手軽な整理”なのか。わたしたちはそれを、今一度問い直すべきではないでしょうか。

ルールをつくること自体に、確かに意味はあります。けれど、本当に必要なのは、そのルールの背景にある「わたしたちはどう生きていくか」を支えるべき視点なのではないでしょうか。

正しく安全に自転車を移動するための専用道。
初心者がしっかり練習できる場所。
子どもとお年寄りが安心して使える道。
そして、ルールに守られるだけでなく、自分たちでもルールを育てていけるような社会の形成が急務だとも思います。


かつて「区跨ぎ」と呼んで、わたしが越えていった境界線。
あの線は、きっと今のわたしたちにとっても必要な越境の象徴なのかもしれません。

自転車が、“危険な存在”として取り締まられる対象ではなく、人と人、暮らしと暮らしをつなぐ道具であってほしい。

そして、社会を見直すための問いを静かに差し出す、そんな存在であり続けてほしいと、心から願っています。

それでは皆様ごきげんよう、また来週お目にかかりましょう。

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kyutai
田中 慎也

空転する思いと考えを自転出来るところまで押し上げてみた2006年。自転し始めたその空間は更なる求心力を持ちより多く、より高くへと僕を運んでいくのだろうか。多くの仲間に支えられ、助けられて回り続ける回転はローリングストーンズの様に生き長らえることができるのならば素直にとても嬉しいのです。既成概念をぶっ飛ばしてあなただけの自転力に置き換えてくれるのなら僕は何時でも一緒に漕ぎ進めていきたいと思っているのだから。
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