「上下関係」という見えない柵について
リスペクトが先にある社会へ
ここCirclesには、さまざまな背景を持ったスタッフが集まってきています。
たとえば、医療機器メーカーのサービスマンとして働いていたDJ歴8年の彼。洋服ブランドの元社長、百貨店の広告デザイナー、ホテルマン。バイクメッセンジャーや老舗味噌蔵の総務、写真館のマネージャー、さらには、大手完成車メーカーのディーラーで副店長を務めていたスタッフもいます。
経験も、年齢も、前職も、本当にバラバラです。

その中のひとり、これまでほとんど触れてこなかった一般車の修理に四苦八苦しながらも、「毎日が充実していてすごく楽しい」と笑っている彼の姿を見るたびに、仕事の序列や見た目の役職なんて、本当はあまり意味を持たないのかもしれないと思わされます。
けれど、社会の空気はそう簡単ではありません。
社歴が浅い。年齢が若い。業務がまだ上手くこなせない。
そういった“外側の条件”だけで、どこか「下」に見られてしまうような雰囲気が、確かに存在していると感じるのです。
その感覚はどこから来ているのか。
わたしが日本を出て、そして戻ってきてから、以前よりも強く感じるようになった違和感について、今回は考えてみたいと思います。
儒教と、日本の「察しの文化」
この「上下が固定される」感覚の背景には、儒教的な価値観の影響があるのではないかと思っています。
儒教には、「五倫(ごりん)」と呼ばれる人間関係の基本型があります。
「君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友」。
なかでも「長幼の序」や「君臣の義」といった上下関係の思想は、社会秩序の基盤として尊重されてきました。
日本では江戸時代、朱子学が“国の学問”として制度化され、そうした考え方が暮らしの中に深く染み込んでいきました。
こうした価値観は、韓国や中国など他の儒教文化圏にも共通しています。
たとえば韓国では、人間関係の最初に年齢確認があり、敬語の使い分けも非常に厳格です。
中国でも家庭や組織内で「年長者を敬う」ことが強く求められます。
けれど日本の場合、そこにもうひとつ別の特徴が加わっているように感じます。

「空気でできた上下関係」
それは、「空気を読む文化」です。
日本では、上下関係が明文化されずに、あくまで“察し”として求められることが多い。
言葉では言われなくても、わかって当然。
従わなければ怒られないけれど、空気が冷える。
それはまるで、見えない柵のように、わたしたちの行動範囲を制限してきます。
この曖昧な空気が、日本の上下関係をより複雑で息苦しいものにしているのではないかと感じるのです。
でも、人と人との関係って、本来はもっと自由で、多面的で、まるいもののはずです。

関係性を、球体で捉える
たとえば、DJだった彼の話を聞くたびに、音楽や前職での経験から新しい視点をもらえることがあります。
元副店長がママチャリの修理に悪戦苦闘している姿からは、経験を脱ぎ捨てて挑戦する誠実さを感じます。
そこには、経歴も年齢も過去の肩書きも関係なく、ただ目の前の課題を通じて「学び合う」対等な関係があります。
それはきっと、豊かさのひとつのかたちなのだと思います。
わたしは最近、「人間関係をピラミッドではなく、球体で捉える」という感覚がとても大切なのではないかと感じています。
誰かが誰かの上に乗るのではなく、みんなが面と面で接して、対等に支え合っている。そんな関係性が、これからの社会には特に必要なのではないでしょうか。

もちろん、経験に裏打ちされた言葉には、敬意を払うべきです。
けれどそれは、「上からの指導」ではなく、「横に並んでの共有」であってほしい。
教える側にも、教わる側にも、対等なまなざしがある社会。
そんな場所こそが、人がちゃんと育っていく土壌なのではないかと、最近よく思うのです。
序列ではなく、対等さ。
威圧ではなく、リスペクト。
ピラミッドではなく、球体。

そんな願いを込めて、今週もまた、ひとつのワッカをつくっていければと思います。
それではごきげんよう、また来週お目にかかりましょう。