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「週刊 球体のつくり方」 Vol.47

存在の耐えられない軽さ

今の空気と、あの頃の既視感

最近の自転車業界を俯瞰していると、どうにも既視感のある、落ち着かない空気を感じます。

わたしが本気で自転車にのめり込みはじめた2000年代の初め頃。
あの頃は、カーボン素材の進化とか、極端な軽量化とか、最新のコンポーネントとか、そういう「数字」の話ばかりが、まるで絶対の正義みたいに語られていました。

いまの空気感は、どこかあの時代にとてもよく似てきています。

もちろん、技術の進歩そのものを否定したいわけではありません。
速くなること。
軽くなること。
効率が良くなること。
そういうものが、自転車という道具の可能性を押し広げてきたのは紛れもない事実です。

でも、その語られ方があまりにも一方向に傾いたとき、自転車がなんとなく、乗る人の身体のことや暮らしかたから、少しずつ離れていってしまうのではないか、そんな違和感がどうしても拭えないのです。

メッセンジャーたちとSURLYが開いた風穴

かつて、その空気感に風穴を開けた存在がありました。
NJSのフレームをストリートへと連れ出し、固定ギアで街を駆け抜けたバイシクルメッセンジャーたちです。

彼らにとって自転車は、スペックを競うためのものではありませんでした。 生活のなかで使い倒され、身体の延長として機能する、きわめて実存的な「道具」だったのです。

そんな彼らの研ぎ澄まされた感覚を、一つのブランドという形に結晶化させたのが、ミネソタで産声を上げたSURLYだったのではないかとわたしは思っています。

SURLYが提示したのは、最新のカーボン素材でも、コンマ数秒を削るための技術でもありませんでした。
どんなに太いタイヤも飲み込む懐の深さ。
泥除けやラックを自由に付けられる拡張性。
そして、多少ラフに扱ってもびくともしない、無骨なクロモリチュービング。

それまでの「正解」だったレース機材の価値観からすれば、それはあまりに重く、非効率なものに見えたかもしれません。しかし、メッセンジャーたちが体現していた「自転車と地続きの生活」を求める人々にとって、SURLYの登場とはいわゆる福音だったのだと思います。

実際に店頭でSURLYを説明していると、価値観そのものを少しずつ組み替えていくサイクリストたちを何人も見てきました。 「何ができるか」ではなく「どう使いたいか」。 スペック表の数字を追いかけるのをやめ、自分なりの使い方を自分で考え始める。そんな変化が、確かに起きていました。

趣味として自転車に深く関わってきた人たちが、スペックの呪縛から少しずつ解き放たれ、より自由で、より泥臭い関わり方へと舵を切っていく。そんな瞬間に立ち会えたことは、いま振り返っても特別な経験だったのです。 あの時代、確かにそこには「消費」ではない「文化」が存在していました。

スタイルだけが残ったあとで

でもその後、状況は少しずつ変わっていきます。
インターネットやSNSの普及によって、現場の熱量は一瞬で可視化され、消費の対象へと変わっていきました。 本来なら時間をかけて育まれるはずの文化が、あまりにも急進的に、いわば「刈り取り」のような形で、ビジネス的文脈へと引き抜かれてしまったのです。

残ったのは、背景から切り取られた「スタイル」だけでした。
それは別の形で流通し、
記号化され、
パッケージ化され、
文脈を失ったまま消費されていく。
それはもう文化というよりも、過去の断片や旨味の再利用に近いものだったのでしょう。

そして今、また似たような構図が広がりつつあるように見えます。 高性能な機材を軸にした評価。
情報の応酬。
終わりの見えないスペック比較。
そこにはかつてのような、試行錯誤や「身体的な経験」が介在する余地が、どんどん失われているようにも感じてしまいます。

その熱量そのものを否定したいわけではありません。
でも、効率や速さ、そして情報という濁流のなかに、「時間」や「身体」がどれだけ残っているのかと考えてみると、やはり一度立ち止まって考えたくもなるものです。

軽さでは残らないもの

だからこそ、ここで今一度「文化って何なんだろう」と思うのです。

わたしにとって文化とは、
道具が、その人の身体の一部になって、一緒に時間を積み重ねていくこと
そのプロセスそのものです。

文化というのは、完成された状態のことではないのだと思います。
むしろ、変わり続けていく過程にこそ宿るものなのでしょう。

例えば、1gでも軽いカーボンフレームは確かに魅力的です。
けれど、その価値は多くの場合、次のモデルが登場した瞬間に更新されてしまいます。
そこでは「いま最も優れているかどうか」が重要であり、時間の蓄積が入り込む余地はほとんどありません。

一方で、スチールやチタンのバイクには、まったく別の時間が流れています。

傷がついたら直す。
塗装が褪せたら塗り替える。
暮らしが変われば、パーツの組み方も変える。
そうやって10年、20年という時間が、そのままフレームに刻まれていく。

そこにあるのは、「性能の更新」というより、「関係が深くなっていく」ということなのだと思います。

もちろん、スチールやチタンが万能だと言いたいわけではありません。
カーボンにもアルミにも、それぞれちゃんと役割があるし、魅力もあります。

でも、どの素材を選ぶかより先に、
その道具とどういう時間を過ごしたいのか
そちらのほうが、ずっと大事なのではないでしょうか。

最新のものは、やがて過去になります。
でも、愛着は時間と一緒に育っていきます。

そして、その積み重ねが、その人にとっての文化になっていくのだと思います。

東京の盟友ブルーラグが、RIVENDELLやCRUST BIKESといったスチールブランドを丁寧に紹介し続けているのも、単に製品を売っているのではなく、そうした時間のあり方を提案しているからなのでしょう。

わたしたちもまた、同じ場所に立っているつもりです。

スペックで語られる世界から、あえて少し距離を取ること。
そのうえで、人と道具のあいだに生まれていく関係を見つめること。
そして、その関係を少しでも長く、少しでも豊かに続けていくこと。

速さや軽さでは測れない価値がある。
数字では言い切れない感覚がある。
そういうものを信じながら、自転車と向き合い続けること。

長く使われた一台には独特の重みがあります。
その重みこそが、文化と呼ばれるものなのだと思います。

軽いだけでは、残らないものがある。
決して軽くはない、その重みのことを、わたしたちはもう一度ちゃんと見直してもいいのかもしれません。

それではみなさんごきげんよう、また来週お会いしましょう。

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kyutai
田中 慎也

空転する思いと考えを自転出来るところまで押し上げてみた2006年。自転し始めたその空間は更なる求心力を持ちより多く、より高くへと僕を運んでいくのだろうか。多くの仲間に支えられ、助けられて回り続ける回転はローリングストーンズの様に生き長らえることができるのならば素直にとても嬉しいのです。既成概念をぶっ飛ばしてあなただけの自転力に置き換えてくれるのなら僕は何時でも一緒に漕ぎ進めていきたいと思っているのだから。
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