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「週刊 球体のつくり方」Vol.49

覚悟を決めた人は、変になる

最近、映画を観て、素直に「面白かった」と思うことが少なくなっていました。

映画自体がつまらなくなった、ということではないと思います。
たぶん、わたしの問題なのでしょう。

性格なのか、年齢のせいなのか、仕事柄なのか、作品を観るときに、ついつい構造を分析しながら、先読みをしてしまうのは健全ではないようです。

この人はここで落ちて、ここで戻るんだろうな。
このセリフ、場面はあとできっと回収されるんだろうな。
この関係性は、最後にはこうなるんだろうな。

そんなふうに、物語の先を勝手に読みにいってしまうことがあります。映画を素直に観ればいいのに、その裏側ばかりを見ようとしてしまう。

まあ、歳とともにちょっと面倒くさい観客になったということなのでしょう。

そんな中で、先週、恥ずかしながらというか、遅ればせながらというか、『プラダを着た悪魔』と『国宝』を観ました。
プラダは古いほうです。笑

感覚的にはまったく違う映画です。

片方は、ファッション業界を舞台にした、20年ほど前の典型的なハリウッド映画。
もう片方は、歌舞伎の世界を舞台にした、人生の強弱を表現している映画でした。

同日に並べて観るには、かなり不思議な組み合わせでした。

でも観終わってから考えると、この二本の本質はどこかでつながっていたと思ったので、いつもとはテンションを変えて筆を執ってみたいと思ったのです。

率直な話、どちらの映画も「覚悟の決め方」が本質の話だったのだと思います。

『プラダを着た悪魔』は、観てみるとかなりシンプルでオーソドックスなアメリカ映画でした。

ジャーナリスト志望のアンディが、自身のキャリアのために、ファッション誌の編集部に入り、ミランダという圧倒的な存在に振り回されながら、仕事と人生を見つめ直していく。

多分どなたでも、先は簡単に読めます。
この人は変わるだろうな。
この恋人とはうまくいかなくなるだろうな。
最後は、自分の道を選ぶんだろうな。

その予想を大きく裏切る映画ではありません。

だから、ものすごく絶賛したいかと個人的に問われたら、So-so、と答えるでしょう。
ただ、この映画が多くの人に影響を与えた理由はよくわかります。

シンプルだからです。

仕事で認められたい。
今いる場所で評価されたい。
誰かに必要とされたい。
自分はもっとできるはずだと思いたい。

そういう気持ちは誰にでもあるし、もちろん、わたしにもあります。

『プラダを着た悪魔』は、ファッションの映画のようでいて、実際には仕事の映画でした。
もっと言えば、「誰かに認められる人生」と「自分で選ぶ人生」の間で揺れるこころの映画。

アンディは最後に、ミランダの世界から降ります。
それは逃げではなく、覚悟だったのだと思います。

一方で、ミランダはけっして降りません。
誰かに好かれること、穏やかに暮らすこと、家庭や普通の幸せのようなものを、彼女はかなり諦めている。

その代わりに、ひとつの世界を動かしている。

近くにいたら、たぶん地獄です。
でも、遠くから見ると伝説になる。

要するに、ミランダは普通ではいられなかった人なのだと思います。

そして『国宝』を観ながら思ったのも、同じことでした。

人間国宝とは、結局、異人変人のことなのだなぁ、と。

普通の人が、普通の感覚で、普通の暮らしを大事にしながら、国宝になることはまずないのだと思います。

何かが欠けている。
何かが壊れている。
何かに没頭しすぎている。
あるいは、何かをあまりにも深く諦めている。

『国宝』は、久しぶりにかなり面白い映画でした。

最近あまり映画を観て「面白い」と思うことが少なくなっていた中で、これはちゃんと面白かった。
そして、何度か泣けました。

しかも、意味不明に。

これは、自分にとってけっこう大きいことでした。
感動した、という言葉だけでは少し足りない。
たぶん、どうしようもなさの琴線に触れたのだと思います。

人が何かを選ぶこと。
選んだつもりが、実は選ばされていること。
才能があることも、ないことも、どちらも人を苦しめること。

そういうものを見て、身体のどこかが先に反応してしまったのだと思います。

『国宝』に出てくる人たちは、美しいだけではなく、かなり危ない人たちばかりです。

芸のために人生を、魂を差し出してしまった人たち。
自分の幸せよりも、舞台の上の一瞬を選んでしまう人たち。
家族や関係や、普通なら守るべきものを壊しながら、それでも決して降りられない人たち。

それらは美談ではありません。

でも、その危なさの先にしか出てこない美しさがある。
だから、見ていて苦しい。
だから、意味不明に泣ける。

覚悟と諦めは、表裏一体なのだとわたしは思います。
覚悟という言葉は、前向きで、強くて、かっこいい言葉に聞こえます。
でも実際には、かなり残酷な言葉です。

何かを選ぶということは、何かを選ばないということです。
ひとつの道を行くということは、別の道を捨てるということです。

アンディは、ミランダの世界を諦めた。
ミランダは、普通の幸せを諦めた。
『国宝』の人たちは、普通の人生を生まれながらに諦めている。

でも、その諦めがとても澄んだとき、人は絶対的に強くなる。
そしてやはり、普通ではなくなる。

覚悟を決めた人は、やはり変になるのだとも思います。

最近は、AIがとても優秀になりました。

文章も書ける。
企画も出せる。
調べ物もできる。
画像も作れる。
相談相手にもなる。

わたし自身も、その力を日々使っています。
便利です。
本当に便利です。

でも、便利になればなるほど、人間は覚悟を決めにくくなっているのではないかとも思います。

もっと良い案があるかもしれない。
もっと正しい言葉があるかもしれない。
もっと失敗しない方法があるかもしれない。

AIは選択肢を増やしてくれます。
比較もしてくれます。
きれいな言葉に整えてもくれます。

でも、最後に「自分はこれでいく」と決めることはできません。
その後の面倒を背負うこともできません。

選んだことで失うもの。
誰かに嫌われること。
失敗すること。
それでも続けること。

その責任は、人間にしか残らないのです。

そんな技術が優秀になればなるほど、社会の平均点も上がっていくのだと思います。
みんながそこそこ賢く、そこそこ正しく、そこそこ整ったものを作れるようになる。

それは素晴らしいことです。
でも、同時に少し怖いことでもあります。

みんながどんどん整っていく時代に、
ちゃんと変でいること。
ちゃんと偏っていること。
そして、その偏りを自分で理解していること。

そういう人や店やブランドの価値は、むしろ上がっていくのだろうなとも思います。

国宝とは、ただ芸が上手い人のことではありません。
優秀な編集長も、ただ仕事ができる人でもありません。

そこには、普通ではいれなかった人間の歪みがあるのだと思います。

歪みと言うと悪く聞こえるかもしれません。
でも、物事の形を決めているのは、意外とそんな歪みだったりもします。

きれいな球体をつくるには、均一であることも大事です。
でも、完全に均一なものには、全くもって手触りがないのだと思います。

そして人が惹かれるものには、どこか偏りがあります。
少しだけ狂っている。
少しだけ過剰である。
少しだけ戻れないところまで行っている。

そういうものが、時間をかけて信頼になり、物語になり、文化になったりするものだと思います。

映画は、たまにそういうことを思い出させてくれます。

意味不明に泣ける映画は、やっぱり大事なんだなとこの文章を書きながら思いました。
枯れはじめた初老の頭では理解できていないものを、まだ身体が先に受け取ってくれるんだ、という新たな感覚を感じることができました。

たぶん、覚悟も同じなのでしょう。

理屈で完全に納得してから決めるものではないのだと思います。
どこかで、身体が先に引き受けてしまうものなのだと思います。

そのあとで、人生のほうを少しずつ追いつかせていくのでしょう。

それではみなさんごきげんよう、また来週お会いしましょう。

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田中 慎也

空転する思いと考えを自転出来るところまで押し上げてみた2006年。自転し始めたその空間は更なる求心力を持ちより多く、より高くへと僕を運んでいくのだろうか。多くの仲間に支えられ、助けられて回り続ける回転はローリングストーンズの様に生き長らえることができるのならば素直にとても嬉しいのです。既成概念をぶっ飛ばしてあなただけの自転力に置き換えてくれるのなら僕は何時でも一緒に漕ぎ進めていきたいと思っているのだから。
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