
むかし、むかしというほど昔ではないけれど、
今より少しだけ、世界がゆっくりと回っていた頃、
ひとりの男がいました。
男は、丸いものが好きでした。
輪っか、
月、星、
車輪、
CD、レコード、
そして、川辺や海に落ちている石。
男はある日、誰かからこんなことを聞きました。
「角の立つ石は弱い。芯のある石は丸くなる」
それが本当かどうか、男にはわかりませんでした。
でも、その言葉は、妙に男の中に残りました。
角がある方が強そうに見える。
尖っている方が見つけてもらえそうに見える。
でも、尖ったものは、ぶつかるたびに欠けていく。
丸いものは、水に揉まれ、石に当たり、
長い時間をかけて、それでも残ったものだけが丸くなる。
男は、川辺や海で石を拾うようになりました。
丸い石を見つけると、少しうれしくなりました。
手のひらに乗せて、撫でました。
けれど、どれだけ丸い石を見つけても、完全な球体の石を、男はまだ見たことがありませんでした。
こっちは少し平たい。
こっちは欠けている。
こっちは丸いけれど、ちょっと歪んでいる。
男は思いました。
「球体なんて、本当はないのかもしれない」
でも、空を見上げると、月がありました。
その向こうには星もありました。
男には、それらが丸く見えました。
手の中の石は、どうしても球体にならない。
でも、空の上では、星たちが丸く浮かんでいる。
男は考えました。
もしかすると、石も、店も、人も、仕事も、
とても大きな流れの中では、
いつかどこかで丸くつながっているのかもしれないと。
もちろん根拠はありませんでした。
でも、男はそういう根拠のない考えが、わりと好きだったのです。
時間が経ち、ある町に、男は小さな店を開きました。
店は古く、広くもなく、けっして便利と言えるものではありませんでした。
けれど、そこには気持ちの良い風が通りました。
人が集まりました。
笑い声がありました。
自転車の音がありました。
油の匂いと、素敵な音楽と、たまに雨の匂いがしました。
ある日、男は店の軒下に白い石が落ちているのを見つけました。
それは、とても丸い石でした。
もちろん完全な球体ではありません。
でも、男がそれまで拾ってきたどの石よりも、丸く、とても白い石でした。
男は思いました。
「これは、ここに置いておいた方がいい」
男はその石を、手の届く軒の上に置きました。
そして毎朝、店に入る前に、その石に触るようになりました。
何かを祈っていたわけではありません。
商売繁盛でも、安全祈願でもありません。
ただ、その石に触ると、男は少し落ち着きました。
今日もここに来れた。
今日も店を開けよう。
今日も誰かが来てくれますように。
今日も何かが起きますように。
石は何も言いません。
もちろん、石なので。
それでも男は、毎朝その石に触りました。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来ました。
また春が来て、また夏が来ました。
店は少しずつ忙しくなりました。
人が増えました。
物も増えました。
やることも増えました。
最初は、すべてがうれしいことでした。
けれど、うれしいことも増えすぎると、少し苦しくなります。
入りきらないもの。
言いそびれたこと。
片づかないこと。
小さな行き違い。
言葉にならない疲れ。
店は、もうその場所に収まりきらなくなっていました。
大家さんとも、少しずつうまくいかなくなりました。
誰かが悪かったわけではありません。
ただ、器と中身の大きさが、合わなくなっていたのです。
男は、わかっていました。
たぶん、もうここを出た方がいい。
でも、始まりの場所を離れるのは、簡単ではありません。
最初の場所には、最初の匂いがあります。
最初の失敗と成功があります。
最初の笑い声があります。
最初に見つけた白い石もあります。
ある夏の夜、大きな台風が来ました。
とてもとても大きかったのです。
雨は屋根を叩きちらし、風はすべてを揺らし、町じゅうのものを少しずつ別の場所へ動かしたかのようでした。
看板も、木の葉も、傘も、空き缶も、誰かの忘れ物も、
みんな夜の街中を転がっていきました。
次の朝、男はいつもより早く店に行きました。
店は大丈夫だろうか。
窓は割れていないだろうか。
水は入っていないだろうか。
そして、いつものように、軒の上に手を伸ばしました。
そこに石はありませんでした。
二年以上、毎朝触っていた白い丸い石が、どこにもありませんでした。
男はしばらく、空っぽの軒を見ていました。
風で飛ばされたのかもしれません。
誰かが拾ったのかもしれません。
水に流されたのかもしれません。
本当のことは、わかりません。
でも男には、その瞬間にわかりました。
「もう、この場所を出るのだ」
石が教えてくれた、というより、
石がなくなったことで、自分がもう知っていたことを素直に認めることができたのです。
男は新しい場所を探しました。
すると、不思議なくらい早く、次の場所が見つかりました。
そこは、前より広く、前より少し街の奥にあり、
これからの呼吸をするには、ちょうどいい場所でした。
男は引っ越しました。
白い石は、もうありません。
けれど、男は石を失ったとは思いませんでした。
あの石は、たぶん役目を終えたのです。
始まりの場所にいて、男が毎朝そこに立つことを確かめ、
そしてある日、台風と一緒にいなくなった。
「ここまででいいから、次へ行きなさい」
新しい店で、男はまた働きました。
人と会い、物をつくり、失敗し、謝り、笑い、怒り、考え、一生懸命に働きました。
角が立つ日もありました。
欠ける日もありました。
誰かとぶつかる日もありました。
自分の芯がどこにあるのか、わからなくなる日もありました。
それでも男は、あの言葉をときどき思い出しました。
「角の立つ石は弱い。芯のある石は丸くなる」
丸くなることは、何でも許すことではありません。
自分をなくすことでもありません。
芯がないものは、丸くなる前に流されてしまう。
芯があるものだけが、削られながら残っていく。
芯があるから、削られても残ります。
芯があるから、角がちゃんと取れていく。
芯があるから、美しい丸になれるのです。
男は、完全な球体にはなれないと思っていました。
手の中の石たちが、完全な球体ではなかったように、
人も、店も、仕事も、完全には丸くはなれません。
どこかが歪んでいる。
どこかが平たい。
どこかに傷がある。
でも、それでいいのだと思いました。
球体とは、完成した形のことではない。
球体とは、向かっていく意志のことなのだ。
そうやって、店も、人も、社会も日々作られていく。
男は今でも、丸い石を見ると嬉しくなります。
拾う時もあります。
拾わない時もあります。
でも、どちらでもいいのです。
球体は、もうどこかに落ちているものではないと悟ったのです。
毎日の中で、少しずつ作るものだからです。
そしてその作り方に、正解はありません。
ただ、朝が来たら店を開ける。
手で触れたものを大切にする。
角が立ったら、なぜ立ったのか考える。
誰かとぶつかったら、何が削れ、何が残ったのかを見る。
場所が役目を終えたら、ちゃんと移る。
石が消えたら、風のせいだけにしない。
それが、男の知っている、球体のつくり方でした。