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「月刊 球体のつくり方」Vol.2

偶然を並べてみる

ワールドカップがついに終わってしまいましたね。

世界が急に静かになってしまったような気がするのは、けっしてわたしだけではないと思っています。

毎日のようにドラマティックな試合があり、知らない国の名前を目にし、初めて目にする選手のプレーに驚き、普段なら気にも留めない遠い国の街や歴史、そして文化などに意識が向いていったりもしました。

気になると、出場国の地図を見てみたり、選手のルーツを調べてみたり、その国の音楽や食べ物、街の風景をGoogleマップで眺めたりしていました。

サッカーを見ていたはずなのに、いつのまにか自分の関心の外側にある世界へ連れていかれている感じ。

ワールドカップロスというものがあるとすれば、それは単に試合がなくなって寂しいということだけではなく、あの大会期間中だけ開いていた世界への扉が、閉じてしまったような感覚なのかもしれません。

自分の外側に触れる時間

最近、情報のインプットについてよく考えるようになりました。

今は本当に便利な時代になりました。
国語辞典が大好きだった幼年期のわたしなのですが、現代では片手に広辞苑よりも多くの物事を、気になれさえすれば、すぐに調べることができます。

知らない選手の名前をすぐに検索、経歴も、所属クラブも、ハイライトもインタビュー動画もすぐに出てきます。
気になった音楽があれば、その場で聴くこともできます。
欲しいものがあれば、どこでいくらで売っているかもすぐにわかりますし、行きたい場所があれば、写真も地図もレビューもすぐに出てきます。

これは本当にすごいことだなぁとあらためて思います。

わたしが若い頃には、そんなことは不可能でした。

何か気になることがあっても、すぐには答えにたどり着けません。
本屋に行き、図書館に行き、雑誌のバックナンバーを探し、詳しそうな人に聞きに行く。
レコード屋で店員さんに尋ねたり、友人から借りたり、時にはよくわからないまま買ってみたりもしました。

いまを思うと、ずいぶん遠回りをしてきたなと思います。

でも、その遠回りの途中には、たくさんの偶然がありました。

探していた本の隣に、まったく知らない作家の本が並んでいました。
目当ての記事を読むために買った雑誌に、ぜんぜん興味のなかった音楽や服や旅の記事が載っていました。
レコード屋で好きなアーティストのアルバムを探していたら、同じ棚に置かれていた別の一枚のジャケットが妙に気になってしまったりもしました。

そういうことが、日常の中にたくさんありました。

情報は少なかったし、
とても不便だったし、
効率もとても悪かったと思います。

けれど、その不便さの中には、自分がまだ知らないものと出会うための偶然性があり、無意識なりにそんな行動を、とても楽しんでいたのだと今となって実感するわけです。

中日新聞Web版より引用

棚が教えてくれたこと

わたしにとって、そのことを最初に身体で教えてくれた場所のひとつが、先日閉店したヴィレッジヴァンガード本店でした。

村上春樹の横には、当然のようにフィッツジェラルドが並んでいました。 その先にはアーヴィングがいて、反対側を向けばコルトレーンが平積みで置かれていました。

思えば、あの棚は単なる商品陳列ではありません。

この作家が好きなら、きっとこの作家にも触れてみたらいい。
この小説を読むなら、この音楽もいつか響くかもしれない。
この世界に足を踏み入れるなら、次はこっちの扉も開けてみたらどうか。

そういう、誰かの偏愛と経験によって組み立てられた、小さな玩具箱のような場所でした。

わたしはそこで、本、音楽、そして文化だけではなく、
ものを並べるということも同時に学んだ気がします。

関係のなさそうなものの間に線を引くこと。
知らないもの同士を意図的に隣り合わせにすること。
ある人の興味が、次の興味へ自然に滑っていくように場所をつくること。

それは、今の言葉で言えばキュレーションなのかもしれません。

でも当時は、そんな言葉を知らなくても、あの棚の前に立っているだけで、何かが伝わってきました。

世界はジャンルごとに、きれいに分かれているわけではなくて、
小説と音楽と映画と旅と道具と思想は、しっかりとどこかでつながっていたりもして、
そのつながりに気づいた瞬間、人の好奇心とは一段深くなるのでしょう。

ヴィレッジヴァンガード本店は、わたしにとってそういうことを教えてくれる場所でした。

点ではなく線で聴く

音楽も同じでした。

あるアーティストに出会う。
最新アルバムを買ってみる。(ここが今とは大きく違う)
気に入れば、そこから一枚ずつ過去へ遡っていく。

そこからは、このアルバムはどのレーベルから出ているのか。
誰がプロデュースしているのか。
どんなミュージシャンが参加しているのか。
同じプロデューサーが手がけた別のアーティストは誰なのか。

そうやって、ひとつの音楽から別の音楽へ、ひとりのアーティストから時代や街やレーベル、そして空気感へと誘われていきました。

点だったものが、少しずつ線になり、やがて自分の中に地図のようなものができていく感覚とでもいうのでしょうか。

今の音楽配信は本当に便利です。
わたしも実際に毎日使っています。

けれど、今の音楽の届き方は、どこか曲単位に切り分けられすぎていて、かつとても安易なようにも感じます。

アルバムというまとまりではなく、配信サービスやレーベルが聴かせたい一曲。
文脈よりも再生数。
流れよりも瞬間的な反応。

それは新しい仕組みの様でいて、どこか昭和のヒットソングをテレビで聴いていた時代に戻っているような古臭さすら感じることがあります。

アルバムにはアルバムの時間があります。

ジャケットを眺め、クレジットを読み、録音された時代を想像しながら聴くことで、音楽はただの音ではなくなっていきます。

それは、情報を消費するというより、情報の中へ潜っていく感覚に近いものだったのでしょう。

検索できる時代に失われるもの

今の時代は、自分が気になった情報へすぐにアクセスできます。

それはとても大きな自由です。

けれど同時に、わたしたちは自分が気にならないものには、ほとんど触れなくても済むようになりました。

検索は、自分が入力した言葉の先にしか連れていってくれません。
SNSは、自分が反応したものに似た情報を次々と差し出してくれます。
動画も音楽もニュースも、過去の自分に近いものを、さらに濃く返してくる。

それは心地良いし、間違いなく便利です。

でも、その便利さの中で、犬が棒にあたる機会は激減してしまっていないでしょうか。

オールドメディアと呼ばれる、新聞や雑誌やテレビには、ある種の雑多さがあります。
気になった記事の隣に、まったく興味のない政治の記事がある。
スポーツ欄の横に、見たこともない国のニュースがある。
音楽雑誌を買ったのに、食事やファッションや思想の話が混ざっている。

そこには退屈なものも、理解できないものも、正直いらない情報もあります。

でもその中に、自分の関心を外へと押し出してくれるものがあるのだと思います。

興味を持てない、ということ

最近、情報との向き合い方について考えていると、ひとつ気になることがあります。

わたしたちは、自分が関心を持てることには、とても強くなりました。

調べるのも早い。
深掘りする方法もたくさんある。
好きなものを、自分のペースで、自分の納得がいくところまで掘り下げることができる。

それは本当に素晴らしいことです。

一方で、自分がまだ関心を持てないことに対しては、少し距離を取りやすくなっているようにも感じます。

興味がない。
自分には関係がない。
よくわからない。
だから触れない。

それは決して、誰か個人の資質だけの問題ではないのだと思います。

自分が好きなものを、自分で選んで、自分のタイミングで深掘りできる時代。
その一方で、好きではないもの、よくわからないもの、まだ言葉にできないものに、半ば強制的に触れてしまう機会は少なくなっています。

だとすれば、興味を持てないのではなく、興味の外側に身を置く経験そのものが足りていないのかもしれません。

人は、最初から何かに興味を持っているわけではありません。

たまたま見た。
誰かに勧められた。
隣に置いてあった。
よくわからないけれど、なんとなく気になった。
何度も目にしているうちに、少しずつ意味がわかってきた。

興味とは、そういう偶然の積み重ねの中で育っていくものだと思います。

最初から好きなものだけを選んでいたら、好きなものの幅はなかなか広がってはいきません。

だからこそ、知らないものを拒否しない意識。
まだ興味がないものを、すぐに切り捨てない感覚。
自分には関係ないと決めつける前に、一度だけでも近づいてみる行動。

それは、仕事においても、店づくりにおいても、人生においても、とても大切な態度なのだと思います。

店は偶然を並べる場所である

このことは、自転車屋にもそのままつながっています。

お客様が店に来るとき、目的はひとつかもしれません。

タイヤが欲しい。
ライトが欲しい。
バッグを探している。
新しい自転車を見たい。
修理をしたい。

でも、本当の店の面白さとは、その目的の先にあると思っています。

タイヤを見に来た人が、知らない道の話を聞く。
バッグを探していた人が、誰かの旅の話に触れる。
完成車を見に来た人が、ハンドルやラックやフレームビルダーの思想に出会う。
修理を待っている間に、隣に置いてある見たこともない自転車が気になってしまう。

そういう偶然があるから、店はただの売り場ではなくなる。

Circlesという場所も、そうありたいと思っています。

わたしたちが店を続ける意味があるとすれば、それは、自転車を通じて人の関心を少しだけ外へ広げることなのだと思います。

このタイヤなら、あの道へ行けるかもしれない。
このバッグがあれば、少し遠くまで行ってみたくなるかもしれない。
この自転車なら、今まで選ばなかった時間に走り出せるかもしれない。
この人の話を聞いたら、自分も何かを始めたくなるかもしれない。

店とは、そういう可能性を並べる場所なのだと信じています。

目的の商品だけを、最短距離で渡す場所ではありません。
まだ名前すらついていない興味を、やんわりと置いておく場所なのでしょう。

それは、ヴィレッジヴァンガード本店の棚が教えてくれたことでもあります。

偶然を並べてみる。

その偶然に誰かが足を止める。
足を止めたものが、いつかその人の中での線になる。
線が増えて、やがて地図になってくれる。
その地図を持って、人はまた少し遠くへ行けるようになる。

わたしにとって、良い店とはそういう場所だと信じています。

好きなものだけでは、遠くへ行けない

ワールドカップが終わったあとに残ったこの静寂感。
それは、世界と偶然につながっていた時間が終わってしまった寂しさなのかもしれません。

知らない国。
知らない選手。
知らない名前。
知らない街。
知らない物語。

普段の自分なら選ばなかったものたちが、世界最大のお祭りというひとつの入口を通じて、突然自分の中へ入ってきたのではないでしょうか。

そういう経験は、やっぱり大切なのです。

自転車に乗ることも、きっと同じです。

たまには知らない道へ入ってみる。
知らない人の話を聞いてみる。
自分では選ばなかった一台に触れてみる。
意味がわからないものの前で、少しだけ足を止めてみる。

そこからしか始まらないことがあります。

便利な時代に、あえて遠回りをしてみること。
好きなものの外側に、少しだけ身を置いてみたりすること。
自分の中にまだなかった線を、誰かの棚や、誰かの言葉や、誰かのお店によって引いてもらうこと。

それはとても非効率です。

でも、非効率なものの中にしか残らない豊かさがあったりもします。

偶然を並べてみる。

それは、これからの時代に店が持つべき、とても大切な役割なのかもしれません。

それではみなさんごきげんよう、またお会いしましょう。

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kyutai
田中 慎也

空転する思いと考えを自転出来るところまで押し上げてみた2006年。自転し始めたその空間は更なる求心力を持ちより多く、より高くへと僕を運んでいくのだろうか。多くの仲間に支えられ、助けられて回り続ける回転はローリングストーンズの様に生き長らえることができるのならば素直にとても嬉しいのです。既成概念をぶっ飛ばしてあなただけの自転力に置き換えてくれるのなら僕は何時でも一緒に漕ぎ進めていきたいと思っているのだから。
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