機能不全のレヴァイアサンと自転する個

かわぐちかいじ氏の傑作『沈黙の艦隊』。
最近ではドラマ、映画化されたりしましたので、ちょっとでも世間の話題になってくれているなら、わたしは少し救われた気持ちになるでしょう。
その物語の中で、独立国「やまと」を宣言した海江田四郎は、国家という強固な枠組みに対して、ある意味、命がけの問いを突きつけ続けていました。
彼は核という極限の暴力を背景に置きながら、その真意は、国家のエゴイズムを解体し、人間が人間として共存するための「真の法」を模索することにありました。

2026年4月の午前。
ホワイトハウスから発せられたドナルド・トランプ大統領の演説を銀行の待合で聴きながら、わたしはあの物語が描いた「静謐な意志」とは対極にある、とても騒がしく、そして危険すぎる暴力の予感に、大きな戸惑いを感じていました。
その言葉は、もはや外交や政治の枠を超え、自己陶酔に浸った権力者が、盤上の駒をただ払いのけるように、生身の人間たちの営みを完全に否定してしまった瞬間のように感じました。
もちろん、イランという国家の是非については、さまざまな憶測や議論があるでしょう。しかし、そこにはわたしたちと同じように朝を迎え、ごはんを食べ、明日をただ願う「人」が確実に存在しているのです。
巨大な国家という怪物(レヴァイアサン)には、いま、その一人ひとりの姿は想像すらできないのだろうなとも思いました。

わたしには、いまのアメリカだけでなく、EU、中東諸国、そしてこの日本においても、国家というシステムそのものが、目に見えて機能不全に陥っているように感じられてなりません。
本来、人々の安全や幸福を担保する「器」であったはずの国家が、いつの間にか誰かのプライドや権力の維持のために、個人の生活や、精神、そして「人権」というとても大切な砦を壊し始めているのではないかとも思っています。
艦長海江田が目指した、国家を超えた理想さえも、いまの泥沼のような分断の前では、あまりに遠い夢のように思えてしまいます。
わたしたちが今直面している事実とは、守ってくれるはずの壁はもはや崩れ落ち、荒野に「ネイキッド」の状態で放り出されているような、そんな厳しい現実なのかもしれません。

国家が人を守ることを忘れ、イデオロギーがただの攻撃材料と化したとき、人間に残されるものとは何なのでしょうか。
個人の意見になりますが、それは「人権」という言葉を、より泥臭く、より切実なものとして認識し直すことではないかと考えています。
それは教科書に書かれた単なる単語、漢字ではなく、誰にも譲り渡してはならない「自身の存在への責任」に近いものかもしれません。

思い返すと、わたしが「サークルズ」という場所を立ち上げたとき、そこには偏執的とも言える「人力」へのこだわりがありました。
店の内装を自分たちで組み上げ、壁にペンキを塗り、ロゴの細部にいたるまで、数名の仲間たちと膝を突き合わせて考え抜きました。そこでは、効率化されたシステムや既製品への安心感は限りなくゼロであり、自分たちの手が届く範囲のものを、自分たちの責任で正しく形にしていくという、不器用ながらも確かな手応えを感じる喜びがありました。

なぜ、そこまで「人力」に固執したのか。
その答えは、やはり自転車という乗り物が持つ、不思議な二面性に隠されているような気がします。
自転車は、人が跨らなければただの自立すらできない鉄の塊であり、大きな荷物に過ぎません。しかし、ひとたび人間が意志を持ってペダルを回し始めれば、そこには「自転力」が宿り、ある速度を超えた瞬間、誰かが背中を押してくれるような「推進力」へと変わります。
科学的なデータで見ても、自転車に乗った人間は、地球上のあらゆる生物の中で最もエネルギー効率の高い移動体になるのだそうです。
自分の体温と、食べたもののエネルギーだけで、鳥よりも遠くへ、馬よりも効率的に進むことができる。この「生き物として最強になれる」という感覚こそ、わたしたちが本来持っていたはずの、自律した存在としての誇りではないでしょうか。

いま、国家という巨大なシステムが、わたしたちの代わりに舵を取り、わたしたちの代わりに「正解」を演算してくれる時代になりました。ですが、その快適さと引き換えに、自らバランスを取り、自ら汗をかいて進むという「身体的な責任」を、どこかに置き忘れてきてしまったのかもしれません。
海江田四郎が、巨大なシステムをあえて個人の手に取り戻そうとしたように。
あるいは、トランプ大統領が語るような「力による支配」が、結局は誰の腹も満たさない虚しいゲームに見えてしまうように。
わたしたちは今一度、自分の肺で吸い込む空気の冷たさと、自分の足で生み出す推進力に、立ち返るべき時に来ているのではないでしょうか。

ニュースの喧騒を離れ、店へと戻る時、自転車を漕ぎ出してみると春らしいちょっと冷たい風の中に、自分の体温だけが確かな事実として感じられました。
システムが狂った音を立てて回り続けるなかで、わたしたちは何を頼りに次の一歩を踏み出すべきなのか。
その答えの断片を求めて、わたしたちは今日も、あまりに無力で、しかしこれ以上なく確実な「人力の道具」に触り続けています。
なぜ「知性」とは、こうも脆くシステムに飲み込まれてしまうのだろうか。AIという名の新しい権力と、わたしたちが知らず知らずのうちに手放してしまった「考える力」について、次回はもう少し深く潜ってみようと思います。
それではみなさんごきげんよう、また来週お会いしましょう。