風景が変わるとき、何が消えていくのか
風景を変えるものとは
「ニセコの風景がまたガラッと様変わりしている。」
そう耳にしたのは、今年の冬のことでした。
北海道の魅力に早いタイミングで惹かれた生粋の遊び人たちが、別の場所へ静かに移りはじめているようなのです。
雪と自然を愛し、自由の匂いを嗅ぎ分けて暮らしていた人たちが、少しずつまた新たな場所へと向かっているのでしょう。

一方で現在のニセコには人が人を呼び、金が金を呼ぶ資本の連鎖が方程式通りに起こっていて、かつての“豊かな遊び場”は“巨大な投資場”へと変わっていったのは必然なのかもしれません。(雪質は変わらず豊かであることが救いですが。)
その変化を、誰がどう捉えるかはそれぞれですが、少なくとも、信じているものの違いによって意味、風景が変わっていくのならば、 それはとても大きな出来事なのだと思います。
大都市は、自由に「消える」場所でもある
なぜこれほど多くの人が、東京を目指すのか。
その問いには、たぶんいくつもの正解があります。
働き口があるから。
人が多いから。
選択肢が広がっているから。

けれどもうひとつ、あまり語られない理由があるような気がしていて。それは、「自分を少し曖昧にできる場所」だから。ということかもしれません。
名前を呼ばれずに一日が終わるということ。過去の肩書きや土地のしがらみから、いったん自由になれるということ。地方にある密度の高い人間関係を、時に重たく感じる人がいることも、自然なことなのだと思います。大都市には、「誰でもない自分」として生きられる余白が、確かにあるのかもしれません。
江戸的構造は、まだ日本に残っている
江戸時代にも多くの人たちが江戸を目指し、さながら現在の構図と大なり小なり違っていないのではなかったのだと思います。
さらには、
「上の判断に従う」
「本音よりも建前」
「正しさよりも和」
江戸時代を象徴するようなこれらの古臭い言葉を、もう遠い昔のものだと思いたかったのだけども、ふとした瞬間に、ああ、まだそこに実存するのだと気づいてしまうこともあります。

たとえば会議。
誰も強く反対していないのに、「確認しておきます」という言葉で場が止まるとき。誰かが決めるのを待つ空気。責任がぼやけたまま、でも何かが決まっていく感覚。
あれはきっと、まだ江戸が終わっていないというか、日本という国はずっとこのままの調子でいくのだろうなと思わせる、小さな証なのかもしれません。
「選べる自由」の必要性
“地方を元気に” その言葉は、もう何十年も見聞きしてきました。
大きな建物、観光資源、補助金。
それぞれに確かに意味はあるのだと思います。
でも、ほんとうに必要なのは、「自分たちで決められる自由」なのではないだろうかと、地方都市に住んでいると、やはり強く思ってしまうのです。
財源をそれぞれの環境に合わせて、自分たちで使えること。
制度を、土地の声に合わせて設計できること。
そういう「選べる余地」があるかどうかで、きっとその場所に生まれる「動きの質」が、少しずつ変わっていく気がしています。
余白が育てる文化もある
わたしたちCirclesが名古屋にあることは、偶然のようで、どこか必然でもあったのかもしれません。
東京には情報も人もお金も集まります。
でもそのぶん、正解の空気感、そして「圧」も強い。
比較され、急かされ、気づけば誰かの価値観のなかで動いているようなこともあるのではないでしょうか。
その点、“大きな田舎”である名古屋には、たまたまその圧が少なかったのかもしれません。

わたしの青年時代には、まだまだ古い街並み、雑草の生い茂った空き地、繁華街に大量発生するヤンキー、そして高架下のゆるやかな空気。その余白には、ラッキーなことに自転車もありました。
話す時間があり、立ち止まる余裕のある速度がありました。そういう余白ある風景があったからこそ、Circlesはここで育ってこられたのだと、今では思います。
幸せのかたちは、いくつあってもいい
都市で働く人もいれば、山あいで暮らす人もいます。
大きな会社で働く人もいれば、田畑を耕す人もいます。

結論、どちらが正しいという話ではなく、信じているものが違えば、その人にとっての幸せの、豊かさのかたちも、変わっていくというだけのことなのでしょう。だから、自分が信じるものの輪郭を、ときどき静かに見つめなおしてみてもいいのかもしれません。
江戸を終わらせるのではなく、別の景色を選ぶ
江戸的な空気は、そう簡単にはなくならない。
けれど、それでも別の景色を見てみたいと思う日があることが、
何より大切なことではないかと思うのです。
街の音色に耳を澄ませたり、
必要な人と必要な話をしてみたり、
“遊び”を暮らしのど真ん中に置いてみたり。

何かを終わらせるのではなく、どんな時代を信じて生きていきたいのか。
その問いの中に、次の幸せのかたちが浮かび上がってくるのだとしたら。
その時間こそが、わたしたちにとっていちばん大切なことなのかもしれません。
それでは皆さんごきげんよう、また来週お目にかかりましょう。