自転車三段活用の哲学
走り続ける理由
自転車という乗り物は、どこか人間に似ているとわたしは考えています。
アインシュタインは「人生は自転車のようなものだ。バランスを保つには走り続けなければならない」と語っていることはとても有名です。

この有名な言葉を聞くと、わたしは単なる比喩を超えて、人間の構造や有様を示しているように感じます。
わたしたちは止まれば倒れる。けれど、走り、動き続けることでようやく“立っていられる”のだと。
その不安定さの中にこそ、生きることの正直さがあるのだと思います。
動くことの喜び
ジョン・F・ケネディは「自転車に乗るというシンプルな楽しさに勝るものはない」と言っています。

彼が政治や経済の文脈ではなく、あくまで個人としてこの言葉を残してくれたことに、どこか自転車人として救われる思いがします。
ペダルを踏み出した瞬間に風と自分の力が同じ方向を向き始めます。
そして目的や評価ではなく、ただ“動くことそのもの”が喜びに変わっていく。この感覚は、どんな時代においても普遍的な人間としての原風景なのかもしれません。
文明と素の技術
イギリスの作家アイリス・マードックは「自転車は人類が知る限り最も洗練された乗り物である。他のあらゆる交通手段が日増しに悪夢の様相を呈する中、ただ自転車だけが、その純粋さを保ち続けている」と表現してくれました。

確かに、自転車ほど誠実な道具はないとわたしは信じています。
エンジンも燃料も持たず、人の身体こそがすべての源になる。
外部の力に頼らず、自分の脚だけで風景を動かしていく。
それは、文明がどれほど発展したとしても、失われることのない“真の技術”です。
わたしたちは便利さの中で、少しずつ世界との直接的な関わりを失ってきたのではないかと時々感じます。けれど、自転車に乗るときだけは、現実の手触りをまだ感じることができるのだと思います。
エンジンとしての自分
アメリカのロードレーサー、ジョン・ハワードはこう言いました。
「自転車ほど興味深い乗り物はない。だってエンジンは乗っている本人なのだから」

この一文は、わたしがよくお客様との会話の中で引用する言葉なのですが、自転車のエンジンとは、他でもない自分です。あるいは身体全体がその構造の一部になっていると言ってもいいでしょう。
動力が自分にあるということは、責任も喜びもすべて自分に返ってくるということ。
それはある種の厳しさでもあるのは間違いないのですが、同時にとても自由だということなのです。
自分の脚で風景を動かすというシンプルな事実が、人の思考をも豊かにしていくのだと思います。
思考を拡張する道具
スティーブ・ジョブズは、コンピュータを「私たちの脳のための自転車(a bicycle for our minds)」と呼びました。
彼が引用した研究によると、人間は素の状態においての移動効率が最下位に位置する生き物だといいます。
けれど、自転車に乗るとその効率は劇的に上がり、ほぼすべての動物を超えていく。

ジョブズはそこに“人間の創造性”の象徴を見ました。
人間は、自らの力を拡張するための道具をつくる。
そしてその道具を使うことで、思考の速度までも変化していく。
つまり、自転車は単なる移動手段ではなく、“考えるための装置”であり、同時に“考えを手放すための装置”でもあるのです。
ペダリングという禅問答
わたしは、ペダリングという行為がとても禅問答に似ていると思っています。
ペダルを一回転させるごとに問いが生まれ、一回転ごとに答えが消えていく。
長い距離を走ると、多くの人が同じ境地にたどり着くのではないでしょうか。

なぜ進むのか。なぜ止まるのか。
そんな問いを立てたところで、足を動かし続けている間は答えを見つける必要もないのです。
ただ踏むこと。
ただ回すこと。
頭ではなく身体が先に理解していること。
その感覚はまるで“空(くう)”のようで、思考の層が少しずつ薄くなっていくのを感じます。
淡々と走っていると、頭がとても静かになっていきます。
風が考えを削ぎ落とし、リズムが呼吸を整えてくれる。
そこには何かを得るための努力も、自己実現の意図もありません。
ペダルの回転は、時間の円環のようでもあります。
繰り返しながら進み、進みながら戻っていく。
その単純な構造の中に、人生の縮図があるのかもしれません。
自転車三段活用
わたしには、自転車に関わる人を見ていて感じる“三段活用”があります。
最初は「自転車持ち」。

それは所有しているだけの人です。
ガレージの奥に置かれた一台をときどき眺めながら、まだその世界の入口に立っている。
この段階では、自転車はモノとしての存在に留まっています。
次に「自転車乗り」。

正しく走り始めた人です。
走るたびに道を覚え、風を感じられるようになり、機械の仕組みも少しずつ身体に染み込んでいく。
乗ることが習慣になり、距離とともに感情が変わっていく。
ペダルを踏みながら、考えが整理され、日々の出来事が別の角度から見えてくる。
この段階になると、自転車はもう“道具”ではなく、自分の延長になってきます。
そして最後の段階が「自転車」。

この人は、もはや自転車に“乗っている”のではなく、自転車として生きています。
移動のためではなく、存在のためにペダルを踏む。
すべての行為が呼吸のようになり、思考のリズムと回転のリズムが自然に重なっていく。
自転車が道具から思想に変わり、人が道具と一体化する。
この状態に達した自転車人を、わたしは尊敬をこめて“自転車”と呼ばせていただいています。
Circlesの仲間にも、そんな自転車人が何人もいます。
動中の静
この三段活用の過程を見ていると、人の思考そのものが変化していくことに気づきます。
所有していたものが、いつの間にか身体に馴染み、やがて心の中心にまで浸透していく。
それは経済的な所有でも、スポーツ的な達成でもありません。
もっと静かな成長です。

「使う」から「生きる」へと意識が移るとき、道具は思想になり、思想は生き方へと変わっていく。
自転車という機械が人の心を変えるというのは、決して比喩ではなく、実際の現象なのだと思います。
禅には「動中の静」という言葉があります。
動いている中に静けさがあり、静けさの中に動きがある。
ペダリングとはまさにその状態に近いのかもしれません。
足は動いていても心は静まり、時間は流れているのに、どこか止まっている。
その矛盾の中に、人間らしさが宿っています。

走ることは、考えること。
止まることは、また始めること。
そして、回し続けることは、生きること。
ペダルの軌跡が描く円は、わたしたちの時間の形であり、思考の形でもあります。
その単純な回転の中に、世界を理解するためのほとんどが詰まっているのかもしれません。
それでは皆さんごきげんよう、また来週お会いしましょう。